大和ふるさと手帖〜奈良だより

故郷・大和(なら)のまほろばを紹介します。歴史、風土、寺院、遺跡、古墳。あすかびとを目指して。

藤原京〜風が設計した都、大和三山に抱かれた国づくりの祈り

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藤原京は、飛鳥の終章と奈良の序章をつなぐ、最初の本格的な都市。奈良県橿原市と明日香村にかかる場所にあり、南北の「条」と東西の「坊」という道路で区画された、碁盤構造を持つ条坊(じょうぼう)都市である。

それまでの都は、いま想像する「都市」とは少し違っていた。大王の宮殿があり、その周辺に必要な建物が集まる。大王を支える豪族たちは、それぞれの本拠地から宮へ通っていた。つまり、都とは“国の中心”でありながら、まだ巨大な官僚都市ではなかった。

しかし、律令国家を目指すとなると話は変わる。天皇に仕える官人たちを宮の周囲に集め、政治、儀礼、行政を一体として動かす都市が必要になる。唐の都城制を学び、国家を制度として運営するためには、住む場所、働く場所、祈る場所まで含めて設計された都が求められた。

藤原京の復元イメージ

飛鳥は、歴史の濃い土地だった。けれど、新しい国家を受け止めるには手狭だった。そこで飛鳥の北西、大和三山に抱かれた平野に、中国式の本格的な都城として藤原京が造られることになる。

持統天皇が築いた、巨大な条坊都市

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天武天皇の后である第41代・持統天皇が都造りを進め、遅くとも西暦694年に遷都。街路が東西約5.3km・南北約4.8kmにのび、その広さは平城京を凌ぐスケール。そこまでのビッグ・シティであったことを、奈良に住む人も知らない。

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藤原京は、大和平野を“平にならし”た都の心臓。政治と祭儀の場を都心に据え、寺院は宮から距離を置いて配置する。中国・唐の都城制を学び、律令国家の姿を地面に刻んだ最初の試みだった。

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学生時代、ここで花火をして叱られたのも憶い出のひとつ。小学生のときは、「ロマントピア藤原京'95」の博覧会もあった。平成生まれは知らないイベントだ。

“日本はじまり”を象徴する都

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現在の藤原京において、花咲き乱れる春と秋を除き、柱ばかりの景観を見て、藤原京の歴史的な意義を感じられる人は少ない。しかし、藤原京は、「日本」という国号が使われはじめた時代の都。

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それまでの倭から、日本へ。大王から、天皇へ。豪族連合の国から、律令によって動く国家へ。その大きな転換期に、都として存在したのが藤原京だった。

だからここは、単に古い都跡ではない。「日本」という国の名と形が、はじめて輪郭を持ちはじめた場所である。藤原京は、“日本はじまり”を象徴する都なのだ。

国家の中枢が置かれた藤原宮

藤原京の朝堂院南門跡

宮域には、国家儀礼の中心「朝堂院」と最高政庁「大極殿(だいごくでん)」、その正門「大極門」、南の「朱雀門」、さらに内裏(天皇の居所)や東院・西院と呼ばれる区画が置かれた。

大宝律令が生まれた、制度としての日本

藤原京の大極殿跡

国家建設の技術が総動員され、ここで大宝律令(701年)が完成し、戸籍・税制・軍制の統一が進む。外交でも遣唐使を通じて文物が入り、和銅開珎発行前夜の貨幣・度量衡の整備へとつながっていく。

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藤原京は“制度としての日本”が輪郭を持ちはじめた現場。最初は「藤井が原」と呼ばれ、のちに「藤原」になった。

造営には近江の田上山の木を宇治川に流し、木津川を通って大和に運んだ。そんな藤原京も、わずか16年で役目を終え焼けてしまった。

わずか16年で終わった都

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藤原京の終わりには、遣唐使の報告が影を落としていたと考えられている。

703年、前年に唐へ渡った遣唐使の粟田真人(あわたのまひと)が帰国した。真人は実際に唐の都・長安を目にしていた。巨大で整然とした本場の都城を見た者の目には、藤原京の設計はまだ十分ではないと映った。

まもなく藤原京の造営工事は中止される。理想の都を目指して造られた藤原京だったが、唐の都城制を知れば知るほど、その不完全さも明らかになった。こうして、次の都として平城京が構想されていく。

失敗ではなく、平城京へ続く最初の実験

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藤原京は失敗作だったのではない。むしろ、国家を都市として形にするための最初の実験だった。その実験があったからこそ、平城京という次の完成形へ進むことができたのである。

いま遺跡に立つと、空の広さが先に来る。大極殿院の礎を示す復元列柱(レプリカ)が芝生に点々と起ち、柱の朱と雲の白が、かつての朝庭の広がりを静かに語る。

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平城京跡もまた、奈良を代表する古代都城の遺跡である。しかし現在の平城京跡の周囲には、住宅地や道路、商業施設、ビルの風景が広がる。1300年の時間を越えた都跡でありながら、どうしても現代都市の気配が視界に入る。

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それに対して藤原京跡には、空がある。風がある。大和三山がある。

高い建物に囲まれず、視線の先に耳成山、畝傍山、天香久山が立つ。この景観の中に身を置くと、都が大和の自然に抱かれていたことが、理屈ではなく身体でわかる。

1300年前の都そのものを見ることはできない。けれど、1300年前の風に近いものを感じることはできる。藤原京跡の価値は、そこにもある。

大和三山に抱かれた都

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駐車場からは遠く三輪山が見える。「大和の国」の「ヤマ」は三輪山のことをを指し、この藤原京もギリギリ「大和」の範囲に入る。もともと、大和は奈良県全体ではなく、三輪山の麓(桜井市)から天香久山(橿原市)までの狭い範囲を指す地名だった。

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東の門跡からは耳成山が見える。万葉集の「藤原宮の御井の歌」では、耳成山が神々しいと謳われている。

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7月下旬に見頃を迎える蓮の池の先には畝傍山。雄大な山と、儚い花の対比がいい。いのち短し恋せよ藤原京。

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最も近いのは、天香久山。大和三山の中では、最も和歌で詠まれている。藤原京の四方に神の山を遥拝できる配置は、都を自然の守りの中に収めようとした古代の感覚をそのまま残している。

万葉集が伝える、藤原宮の華やぎ

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万葉集巻一には、こんな歌がある。

藤原の大宮仕へ生れ付くや娘子がともは羨しきろかも

藤原宮に仕える乙女として幾度も生まれたい、そんな意味だ。整った条坊の街で、朝な朝な衣の袖が風に鳴り、儀礼の鼓動が日常だった時間が、確かにここにあった。

季節が変わると、都は花野になる

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季節が変わると、都は花野になる。

7月中旬から8月上旬にかけて、藤原京跡にはもうひとつの見頃が訪れる。大極殿跡の南東に広がる約3,000㎡の蓮ゾーンである。

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ここには、唐招提寺蓮(とうしょうだいじはす)や大賀蓮(おおがはす)など、11種類の蓮が植えられている。

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一面に広がる大きな葉。そのあいだから、淡い桃色や白の花がすっと立ち上がる。水面には丸い葉が浮かび、茎の影がゆらぎ、遠くには大和の山並みと集落の屋根が重なる。都跡というより、古代の水辺に迷い込んだような気配がある。

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蓮は、早朝に咲き、昼前にはそっと閉じる。見頃の時間は短い。暑い日差しが強くなる前、まだ空気に朝の涼しさが残っている時間にこそ、花はいちばん美しい顔を見せる。

その儚さが、藤原京によく似合う。

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藤原京は、わずか16年で都としての役目を終えた。日本という国の輪郭を刻みながら、あまりにも短い時間で歴史の表舞台から退いた都である。蓮の花もまた、長く咲き誇る花ではない。朝に開き、昼には閉じる。その短さの中に、凛とした美しさがある。

蓮は泥の中から立ち上がり、濁りに染まらず花を咲かせる。藤原京もまた、飛鳥の混沌から立ち上がり、律令国家という新しい秩序を地上に描いた都だった。

大きな葉が風を受けて揺れ、その上に光が散る。白い蓮は清らかに、桃色の蓮はほのかに艶を帯びて咲いている。花びらの先に差す紅は、朱の柱を思わせる。かつてここに立っていた宮殿の色が、夏の花に姿を変えて戻ってきたようにも見える。

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秋には大極殿跡の南側一面、約24,000㎡に約240万本のコスモスがそよぎ、朱雀大路の記憶を柔らかく彩る。

太古からの名物ではない。平成に入って地元の人びと(醍醐町・別所町・高殿町)が植栽を続けてきた結果だ。

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藤原京の秋は、光がゆっくりと地を撫でる季節だ。紅、桃、白、橙。花々は群れながらも一輪ずつに個性を宿し、空を見上げて咲いている。

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大和三山の懐に抱かれるように、花畑が広がっている。古の都の跡を包むこの花々は、往時の華やぎを思わせながらも、どこか控えめで、気品がある。

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秋の風が吹くと、花びらが一斉に傾く。その動きは、千年前の朝堂の人々が天を仰ぎ、祈りを捧げる仕草のようだ。風は古代の言葉を運び、陽光は大和の時間を磨く。藤原京の秋桜は、歴史の上に咲く詩のようだ。

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花の香に包まれながら歩けば、古代と現在がゆるやかに溶け合っていく。この平原の静けさの中に、遙かなる“大和”がある。

短命だったからこそ際立つ都の意義

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藤原京は710年に平城京へ都が移るまでの短い都だったが、その“短さ”こそ、意義を際立たせる。唐風の都城を受け入れ、天皇中心の律令国家を制度として立ち上げた。日本史の転換はここで具体化したのだ。

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鄙なる雅、雅なる鄙。広い空と整然たる基壇の線、遠景の三山と足元の草いきれが、千年の時間をやわらげて混ぜ合わせる。

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柱の影をまたぎ、風の道をひと筋歩く。数字で量れる規模の向こうに、国のかたちを初めて“設計図どおりに建てた”意志が見えてくる。

映画『朱花の月』に受け継がれた藤原京

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藤原宮跡は、2011年の河瀨直美さんの映画『朱花の月』に登場する重要な舞台となっている。飛鳥時代から平成へ、太古の遺産は現代に継承されている。

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2026年、世界遺産に認定され、さらに多くの人が訪れる。奈良らしい静けさと歴史を大切にしながら、人をあたたかく迎え入れる、しなやかな場所であってほしいと願う。

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藤原京。平にならす奈良の原点は、今も風の中に立っている。

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藤原京へのアクセス

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所在地:奈良県橿原市高殿町・醍醐町周辺(藤原宮跡)

藤原京は、日本で最初に条坊制によって整えられた都であり、現在はその中心部「藤原宮跡」が史跡公園として整備されている。季節ごとに花が咲き、春は菜の花、夏はハス、秋はコスモスが広がる。

 電車でのアクセス

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  • 近鉄「畝傍御陵前駅」から徒歩約30分
  • 近鉄「耳成駅」から徒歩約30分
  • JR桜井線(万葉まほろば線)「畝傍駅」から徒歩約30分

※最寄り駅からはバスが少ないため、徒歩または自転車での散策がおすすめ。

車でのアクセス

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  • 京奈和自動車道「橿原北IC」または「橿原高田IC」から約15分
  • 南阪奈道路「葛城IC」から約25分

駐車場

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  • 無料駐車場あり(藤原宮跡資料室北側、約100台)
  • 周辺にも臨時駐車場が整備されている(花のシーズンは混雑に注意)

藤原京が登場する映画

藤原京の周辺