
初瀬川(はせがわ・はつせがわ)は、奈良県北部を流れる大和川上流の古称。川の長さは約28キロメートルに及ぶ。
古くは泊瀬川・長谷川・泊湍と記され、桜井市を経て川西町で佐保川と合流し、その後「大和川」と名を変えて大阪湾へと流れ込む。

今でも地元・桜井市金屋の人は大和川(やまとがわ)ではなく「はせがわ」と呼ぶ。
初瀬川の範囲

初瀬川の源流は、桜井市初瀬の長谷寺の周辺。寺の門前をかすめるように流れ出し、国道165号線に沿って初瀬谷を下り、奈良盆地へと向かう。

初瀬から西へ向かった朝倉橋付近では、山あいの谷川だった流れが、ゆるやかに川幅を広げていく様子を見ることができる。

慈恩寺を過ぎると、かつて仏教が伝来した磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)あたりを流れ、金屋の河川敷に向かう。

かつて仏教が伝来したときに百済の使者を迎えた馬の遊具が並び、親子連れの姿が見られる。

さらに西に流れて三輪を通過し、桜井市中心部では粟原川(あわはらがわ)などの支流を合わせ、さらに下って大和川本流へと注ぐ。

かつては、三輪山の麓を流れる区間を「三輪川」と呼んだと伝わり、初瀬川は古くから信仰と風景が自然に溶け合う、大和らしい川として親しまれてきた。
初瀬川の歴史と文学
日本書紀

初瀬川の初出は『日本書紀』に見られる。『日本書紀』の継体7年(513年)9月条に記される歌である。春日皇女が次のように歌っている。
初瀬川を流れてくる、竹の組み合わさっている節竹。その根元の太い方を琴に作り、末の細い方を笛に作り、吹き鳴らす御諸山の上に、登り立って私が眺めると、磐余の池の中の魚も、水面に出て歎いています。わが大君が締めておいでになる、細かい模様の御帯を結び垂れて、誰でもが顔に出して、お別れを歎いています。
これが最初の初瀬川の登場であり、表記は「こもりくの泊瀬の川」となっている。

また、敏達10年(581年)閏2月条では、蝦夷(東北地方の先住民)が「泊瀬の中流に下りて天皇に忠誠を誓う」という場面が描かれている。
万葉集

『万葉集』には13首が詠まれ、そのときの表記も「泊瀬川」だった。
泊瀬川、流るる水沫(みなわ)の、絶えばこそ、我(あ)が思ふ心、遂げじと思はめ
「初瀬川の流れが絶えることのないように、私の恋心も絶えることがないですよ」という意味。作者は不詳。

現在の穏やかな川からは想像できないが、1000年以上前は湿地帯で海のような広さがあった。

『古事記』では三輪山の周辺を「美和河(みわかわ)」と言い、山の南側を流れる川を「初瀬川」、北を流れる川を「巻向川」と呼んだ。

推古天皇の時代には、隋の使者・裴世清(はいせいせい)が大阪湾から上陸して初瀬川を遡り、海柘榴市(つばいち)で上陸したとされる。

初瀬川は、飛鳥時代において重要な水運ルートであり、平城京に遷都する以前は、藤原京など飛鳥の都と難波津を結ぶ役割を果たしていた。この流域一帯を治めた額田部氏(ぬかたべうじ)が水運を掌握し、地域の発展に寄与していた。

初瀬川は『古今和歌集』や『後撰和歌集』にも登場し、『源氏物語』では、玉鬘(たまかずら)が「初瀬川 はやくのことは知らねども 今日の逢ふ瀬に 身さへながれぬ」と詠んだ。
「この初瀬川の流れの速さ、でもそんな昔の時代のことは知りませんが、この逢ふ瀬という瀬に、うれし涙が川の瀬のように流れて、私の身まで、その瀬に流れてしまいます」という意味である。
風姿花伝
大和出身の偉大な芸能者である世阿弥が記した能楽論(演劇論)書『風姿花伝』にも初瀬川が登場する。
欽明天皇の御宇に、大和国泊瀬の川に洪水の折りふし、河上より一つの壺流れ下る。三輪の杉のほとりにして、雲客この壺をとる。中にみどり児あり、形柔和にして玉の如し。
初瀬川の洪水で流れてきた壺に、秦の始皇帝の生まれ変わりが入っていた。それが猿楽の祖といわれる秦河勝(はだのかわかつ)だったという。聖徳太子が秦河勝に命じて六十六番の遊宴を作らせたものが「申楽」の始まりと伝えている。
悲劇:初瀬流れ

初瀬川では、大きな氾濫が頻繁に起きている。特に大きなものは二度で、最初は平安時代の929年7月19日で海柘榴市が崩壊したとき(後述)。そして、有名なのが1811年8月3日(旧暦6月15日)に起きた「初瀬流れ」である。
午後8時頃から降り出した集中豪雨により、長谷寺の近くで大洪水が起き、30軒の家屋が流失し、死者126人を出した。その被害は下流にも及び、慈恩寺、金屋、三輪のあたりでも床下が浸水し、いくつかの人家が流された。
昭和2年生まれの祖父が子どもの頃は、大雨で農家が飼っていた牛が流されてしまった光景を目撃している。祖父によると、誰の牛か分からないため、仲間で食べたという。
初瀬川の河川敷に建つもの
初瀬川万葉歌碑

仏教伝来の碑の隣にある万葉歌碑。作者は未詳。
当時の桜井は中国や朝鮮との交流など、国際都市であり、「しきしまの大和」と呼ばれた。その頃に思いを馳せ、万葉の歌碑が佇んでいる。
夕さらず河蝦鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくし良しも
「夕方にはいつも河鹿が鳴いている三輪川(当時の初瀬川の呼び方)の清らかな瀬の音を聞くのは、本当に気持ちがよい」という意味。
磯城嶋公園の万葉歌碑

泊瀬川 速み早瀬をむすび上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも
初瀬川の東・磯城嶋公園に万葉の歌碑がある。
川の流れの速い初瀬川の水をすくって「好きですか?」と聞いてくれた人は今どこへ、という意味。子どもの頃、泳いでいた初瀬川の流れが早かったというのは意外である。
紀朝臣鹿人の万葉歌碑

岩走り 激ち流るる 泊瀬川 絶ゆることなく またも来て見む
岩の上を激しくほとばしり流れる泊瀬川よ。その流れが絶えることがないように、私もまた絶えることなく、何度でもここを訪れて、この流れを見よう。

このように、初瀬川は、古代より文学の題材として親しまれてきた。
仏教伝来の地と碑

現在、桜井市金屋には「仏教伝来の地」の石碑が建立されている。538年、百済(くだら)の聖明王の使者が、この地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとされる。年代は諸説あり、『日本書紀』では欽明天皇13(552年)となっている。
海柘榴市歴史公園

遣隋使の小野妹子が、隋の裴世清らを伴って帰国したとき、この地で錺馬(かざりうま)75頭を仕立て、盛大に迎えた。それを記念した錺馬(かざりうま)が、金屋河川敷の海柘榴市歴史公園に建てられている。

小野妹子を迎えた盛大に出迎えた餝馬(かざりうま)の歴史にあやかり、馬の置物がある。近所の子どもたちの憩いの場となっている。
馬井出橋

現在では、馬井出橋や大向寺橋などの橋が架かり、地元の交通を支えている。初瀬川は、歴史と文化が交差する奈良の象徴的な河川の一つである。
金屋河川敷公園

かつて初瀬川は「日本一汚い川」と呼ばれたが(幼少の頃、よく川で泳いで怒られた)、今では浄化が進んだ。

雪の降る寒い日でも、鴨が楽しそうに泳いでいる。
海柘榴市

日本最古の市場である「海柘榴市(つばいち)」は、現在も金屋の集落に「海柘榴市観音堂」があり、その名を残している。古代は初瀬川の流域も含まれる巨大な市場だった。両岸に広がる河川敷が人々の往来と物資の取引の舞台となっていた。

古代の海柘榴市は現在の観音堂周辺だけでなく、初瀬川の右岸・左岸の河原地帯を含む広い範囲に及んでいたとされる。川は単なる地理的な境界ではなく、むしろ市の中心的存在であり、水運や交易の利便性を生かした「川の市」であった。

初瀬川の水辺は、商いと祈りが共存する特別な空間として、長谷寺や三輪山の信仰圏と深く結びついていた。海柘榴市は、現在の観音堂周辺を核としながら、初瀬川の流れそのものを包み込む“市の河原”であり、大和の経済と文化を支えた古代市場である。
磯城嶋金刺宮

磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)は、第29代欽明(きんめい)天皇が営んだ皇居。仏教伝来のために大和川の港に上陸した百済の使者が向かった宮殿も、磯城嶋金刺宮である。初瀬川の河川敷にある「磯城嶋公園」に、その石碑が建てられている。
四季の初瀬川
冬の雪景色

初瀬川は、冬には氷点下の寒さに沈む。まれに雪が降り積もり、枝は白き花を咲かせたかのように装う。
桜の木々はその下でじっと息をひそめ、来たる春を待つ。雪に耐えるその姿は、静謐の中に力を秘めている。やがて時が満ちれば、真白な衣を脱ぎ、満開の桜としてふたたび命の輝きを放つ。

冬の景は、春を予感させる余白であり、桜の眠りが深いほど、その目覚めは鮮烈になる。川もまた、静かな呼吸を繰り返しながら、その季節を待っている。
河川敷の桜並木

平成の世に入ってから、初瀬川の河川敷には数多の桜が植えられた。いまでは春ごとに、川沿いが花霞に覆われ、桜井の春を象徴する景となる。

初瀬川が最も美しく装うのは、桜の化粧をまとったとき。水面に映る薄紅の揺らめきが風にたなびき、川そのものが花を纏っているかのように見える。春の訪れを待つ心は、この景色に出逢うためにあるのだと思わせる。

暮れゆく空の下、並木道に提灯が灯されると、淡い光が花を透かして幻想を生む。花は夜の闇に溶け込み、提灯の朱と川面の影が溶け合う。そこに漂うのは、ただ花を愛でる以上の時間、夢と現の境がゆらぐひとときがある。
夏の入道雲と百日紅

桜の花びらが散り去り、陽炎のような暑さが訪れる頃、足は自然と昼の河川敷へと向かう。振り返れば、都会では出逢えない大空と、入道雲の群れが悠々と広がっている。

視界を遮る高いビルもなく、山の稜線さえ遠く霞む。目に映るものの大半は牧歌的な草むら、果てしない空の青、そして悠然と泳ぐ雲。世界の輪郭が簡素であるほど、その美は際立って見える。

やがて夕暮れが忍び寄ると、雲はひとつの生き物のように形を変え、重力を帯びながら空を覆ってゆく。大和の平野に落ちるその影は、夏の深さをひときわ濃く刻み込む。

帰り道、西の空を仰げば、燃えるような陽光が大和平野の地平を染め、緑の野を金色に変える。落葉ではなく、夕陽そのものが大地を彩る。その光景は、夏にしか訪れぬ幻想、一度きりのファンタジアのように、心を奪い去ってゆく。

夏から秋にかけて、初瀬川のほとりを彩るのはサルスベリ(百日紅)。燃えるような紅ややわらかな桃色、涼やかな白の花を、百日ものあいだ途切れることなく咲かせ続ける。名の由来も、そのひたむきな咲き姿にちなんで「百日紅(ひゃくじつこう)」と呼ばれてきた。

その幹はつややかで滑らか、猿さえ登ることができないといわれるほどで、人々は愛嬌を込めて「サルスベリ」と呼ぶ。真夏の陽射しを浴びてもなお花を揺らし、季節を超えて咲き誇るその姿は、暑さに疲れた心を励まし、川辺に涼やかな彩りを添える。
秋のススキ

秋の終わり、慈恩寺の初瀬川のほとりに金色の風が流れる。七草のひとつ、ススキが細い身をしなやかに揺らし、夕陽を受けて穂先がほのかに光る。

川面を撫でる風はやわらかく、一日の終わりを告げる光の中で、季節の呼吸だけが静かに続いている。

ススキは気温が下がる冬(12月)に生命力を増し、夕暮れの初瀬川を潤してくれる。このススキを見ながら、桜井で生きる「さくらびと」は、1年を終える。

初瀬川の季節イベント
金桜灯火会(8月)

金桜灯火会(きろう・とうかえ)は、2024年から始まったお盆の夜の催し。初瀬川の河川敷に続く桜並木の下に、80基のローソク灯籠が並ぶ。

火を灯すのは、金屋地区の防災会・老人会の有志たち。小さな炎の一つひとつに、町を思う心が込められている。
18時半から始まるその道は、暮色とともにゆっくりと輝きを増していく。灯籠は蛇の道のように続き、炎の列が魂を導く川の流れのように宵闇を照らす。

蝉しぐれの余韻が消え、夜風が少し冷たさを帯びる頃、川面に揺れる光が夏の記憶をやさしく包み込む。金桜灯火会は、ひと夏の夜を静かに染め上げる、光の盆の物語である。
初瀬川フェスティバル(11月)

磯城郡田原本町の「しきのみちはせがわ展望公園」では、毎年11月に「初瀬川フェスティバル」が開催され、古代から続く初瀬川流域の歴史に新たな息吹を与えている。
平安時代、この川沿いには音楽を生業とする人々が住んだ「楽戸郷(がくべのさと)」があったと伝わる。初瀬川フェスティバルは、その歴史を尊びながら、三輪山に向かって音楽を奏で、五穀豊穣への感謝を捧げる祭りである。

会場となる「おはなみ広場」には、地元の食材を使ったフードブースやキッチンカーが数多く並び、訪れた人々で賑わう。澄んだ秋空の下、音楽、食、そして古代から続く祈りが、ゆるやかにひとつにつながる一日となる。
「大和さくらい万葉まつり」の憶い出

時代が平成の頃、初瀬川の畔の金屋河川敷では毎年9月になると「大和さくらい万葉まつり」が開かれていた。
金屋河川敷公園は、幼少の頃に弟たちと野球に明け暮れた場所。真冬の氷点下でもバットを握りしめ、無邪気に白球を追いかけた。近くに自販機があり、100円玉で買えるホットココアの味は忘れない。グローブの革の匂い、勝った負けたで一喜一憂した記憶が、初瀬川の流れとともに蘇る。
金屋河川敷での「大和さくらい万葉まつり」は2001年から始まった。8000人ほどが訪れ、賑わいは華やかだった。屋台が立ち並び、浴衣姿の人々が行き交う。10年以上前のことだが、この祭りで10歳年下の恋人と出店を回ったことがある。美大生が描く似顔絵の屋台があり、彼女と並んで座った。微笑みながら筆を走らせる女子大生の笑顔が記憶に残っている。10歳差の恋人同士に、とても驚いていた。
夜が深まるにつれ、祭りのクライマックス「歌垣火送り」が始まる。多くの人々が、願いを込めた灯篭を初瀬川に流していく。会場では、1個400円で「恋灯篭」と「歌灯篭」が売られていた。恋灯篭を買い、彼女と並んで、結婚の願いを書いた。
灯篭が川面をゆっくりと進んでいく様を、肩を寄せながら見つめた。今となっては、叶わぬ願い。初瀬川の流れは変わらない。あの日の二人はもういない。過ぎ去った時間の中で、思い出だけが静かに揺れながら、灯篭の光とともに流れていく。
奈良の川
大和の山々
大和の寺院
日本最古の市場
日本最古の宮都
新年に響く大和の鐘
神の山への祈り
狛犬の憶い出
日本最古の神社
あすかびとへの道
奈良盆地(大和平野)の郷愁
大和の詠
長谷寺の門前にある日本一の草もち
桜井のイベント