
目の前に広がるのは、民家と田んぼが続く、ごくありふれた大和の田園風景だ。だがこの静かな土地には、かつて日本の中心が置かれていた。殺風景に歴史の重みと神聖さが宿る。桜井市に残る「継体天皇 磐余玉穂宮跡」は、そんな大和の原風景の中にひっそりと佇んでいる。

磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)は、第26代・継体天皇が6世紀初頭、現在の奈良県桜井市に営んだ宮である。西暦526年頃、大和国に本格的に入った継体天皇が都とした場所と伝えられている。
継体天皇は、もともと直系の皇位継承者ではなかった。先代の武烈天皇が皇子を残さず崩御したため、直系から分かれて出た枝葉の系統から推されて即位することになる。507年、河内国で即位したものの、血縁の遠さもあり、すぐには大和に入ることができなかった。そのため、越前国(あるいは近江国)から始まり、筒城宮、弟国宮と都を移しながら、徐々に大和へ近づいていった。
そして即位から約20年後、ようやく営まれたのが、この磐余玉穂宮である。ここは、継体天皇が大和に築いた最初であり、同時に最後の都でもあった。

「磐余(いわれ)」という地名は、日本書紀の神武東征の物語にも登場する。もともとは「片居」あるいは「片立」と呼ばれていた土地に、多くの軍が集まり満ちあふれたことから、「磐余」と名づけられたと記されている。
初代・神武天皇の和風諡号に「神日本磐余彦天皇」とあることからも、この地がヤマト王権にとって特別な意味をもっていたことがわかる。

実際、磐余一帯には、履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、神功皇后の磐余若桜宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮など、いくつもの宮が置かれてきた。磐余は、長いあいだヤマト王権の中枢を支えてきた土地なのである。

現在、宮殿の建物は残っていない。だが、空の広さ、田畑の起伏、周囲を囲む低い丘陵を眺めていると、なぜここが都に選ばれたのかが、感覚として伝わってくる。磐余玉穂宮跡は、「何もない」風景の中にこそ、古代日本の記憶が静かに息づいている場所である。