
斉明(さいめい)天皇は、第37代天皇であり、日本史で初めて重祚(ちょうそ/一度退位した天皇が再び即位すること)した天皇である。
第35代・皇極天皇として一度皇位に就いたが645年、乙巳の変によって蘇我本宗家が滅亡すると、皇極天皇は弟・軽皇子へ譲位。軽皇子が第36代・孝徳天皇となり、自らは皇祖母尊(すめみおやのみこと)として政権を支える立場に回った。
しかし、孝徳天皇と皇太子・中大兄皇子の政治方針は次第に食い違っていく。
653年、中大兄皇子は弟・大海人皇子らとともに難波を離れて飛鳥へ帰還。孝徳天皇は難波に取り残されるような形となり、翌654年に崩御した。
そこで655年、数え年62歳となった宝皇女(たからのひめみこ)が再び即位する。
第37代・斉明天皇の誕生である。
斉明天皇の治世では、飛鳥の宮都整備、大規模な土木工事、皇位継承をめぐる有間皇子の変、阿倍比羅夫による蝦夷への遠征など、国内外で国家の力を拡大する政策が進められた。
そして晩年、百済が唐・新羅連合軍によって滅ぼされると、自ら大軍を率いて九州へ向かう。
しかし661年、遠征途中の筑紫で崩御。皇極天皇として蘇我氏の滅亡を目撃した女性は、斉明天皇として今度は東アジアの大戦争へ向かう途中で、その生涯を閉じた。
※皇極天皇の時代はこちら
斉明天皇のプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 宝皇女(たからのひめみこ) |
| 生没年 | 594年〜661年7月24日 |
| 父 | 茅渟王 |
| 母 | 吉備姫王 |
| 夫 | 舒明天皇(田村皇子) |
| 兄弟姉妹 | 孝徳天皇など |
| 子ども | 漢皇子、中大兄皇子、間人皇女、大海人皇子 |
| 最初の即位 | 642年、第35代・皇極天皇 |
| 皇極天皇退位 | 645年 |
| 重祚 | 655年、第37代・斉明天皇 |
| 斉明天皇としての在位 | 655年〜661年 |
| 主な出来事 | 飛鳥の宮都整備、有間皇子の変、蝦夷への遠征、百済救援 |
斉明天皇と皇極天皇は同一人物である。642年に皇極天皇として即位し、645年に孝徳天皇へ皇位を譲ったあと、655年に斉明天皇として再び即位した。
そのため、斉明天皇の治世を理解するには、皇極天皇時代から続く家族関係を見る必要がある。
長男は中大兄皇子、のちの天智天皇。
次男は大海人皇子、のちの天武天皇。
娘の間人皇女は、孝徳天皇の皇后となっている。
つまり斉明天皇の周囲には、現天皇、前天皇、皇太子、のちの天皇たちが家族として密集していた。斉明朝の政治は、この濃密な皇族関係の中で進められていく。
斉明天皇の生涯と主な出来事
| 西暦 | 年齢 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 645年 | 52歳 | 皇極天皇が弟・軽皇子へ譲位。孝徳天皇が即位 |
| 653年 | 60歳 | 中大兄皇子らと難波を離れ、飛鳥方面へ帰還 |
| 654年 | 61歳 | 孝徳天皇が難波で崩御 |
| 655年 | 62歳 | 斉明天皇として重祚。日本史上初の重祚となる |
| 656年 | 63歳 | 後飛鳥岡本宮を整備し、大規模な土木工事を進める |
| 658年 | 65歳 | 有間皇子の変。阿倍比羅夫による蝦夷への遠征 |
| 659年 | 66歳 | 阿倍比羅夫が津軽・北海道方面へ勢力を広げる |
| 660年 | 67歳 | 蝦夷への遠征を継続。百済が滅亡し、日本へ救援を要請 |
| 661年 | 68歳 | 百済救援のため西征。筑紫の朝倉橘広庭宮で崩御 |
653年:孝徳天皇を難波に残し、飛鳥へ帰る

645年に皇極天皇が退位すると、弟の軽皇子が第36代・孝徳天皇として即位した。
都は飛鳥から難波へ移され、652年には難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)が完成する。
孝徳天皇のもとでは大化改新と呼ばれる一連の政治改革が進められた。
しかし、政権内部は必ずしも一枚岩ではなかった。改革が進むにつれて、孝徳天皇と皇太子・中大兄皇子との関係には次第に亀裂が生まれていったと考えられる。
653年、中大兄皇子は都を飛鳥方面の倭京へ戻すことを孝徳天皇へ求めた。
孝徳天皇はこれを拒否する。すると中大兄皇子は母・皇祖母尊、孝徳天皇の皇后である間人皇女、弟・大海人皇子らを連れ、難波から飛鳥へ帰ってしまった。
多くの官人たちも中大兄皇子に従ったとされる。
結果として孝徳天皇は、難波に取り残されるような形となった。これは、天皇の政治に対する、皇太子側からの事実上のボイコットとも見ることができる。
孝徳政権は大きく分裂したのである。
654年:孝徳天皇が難波で崩御
飛鳥へ戻った中大兄皇子たちに対し、孝徳天皇は難波に残った。そして654年10月、失意の中で崩御したと伝えられる。
本来であれば、次の天皇として最も注目されるのは皇太子・中大兄皇子だった。中大兄皇子はすでに数え年30歳前後。即位できないほど若いわけではない。
乙巳の変を主導し、大化改新にも深く関わってきた。政治経験も十分に積んでいた。
ところが、中大兄皇子は即位しなかった。代わりに再び皇位へ戻ったのが、母の宝皇女だった。
655年:斉明天皇として重祚、日本史初の再即位
655年1月、かつて皇極天皇だった宝皇女が再び皇位に就いた。
第37代・斉明天皇である。数え年62歳。一度退位した天皇が、再び天皇となる。これが日本史上初の重祚だった。
なぜ、中大兄皇子自身が即位しなかったのか。明確な理由はわかっていない。
一説によると、孝徳天皇の時代に一度崩れた政治体制を立て直し、天皇は原則として崩御まで在位するという従来の終身的な皇位のあり方へ戻す意味があったのではないかと考察している。中大兄皇子は皇太子のまま政権中枢に残り、経験豊富な母を再び天皇に立てる。
いわば、斉明天皇が政権を安定させ、中大兄皇子が次代を準備するという体制だった。
皇極天皇として退位した女性は、10年後、今度は斉明天皇として飛鳥へ帰ってきたのである。
656年:後飛鳥岡本宮を造営

重祚した斉明天皇が力を注いだものの1つが、飛鳥を恒久的な政治都市として整備することだった。
飛鳥板蓋宮を拡張し、後飛鳥岡本宮(のちの飛鳥浄御原宮につながる宮域)を整備。
656年頃からは、大規模な土木事業が相次いだ。『日本書紀』は、斉明天皇について「土木工事を好んだ」と記している。
天香具山方面から石上山付近まで大規模な水路を掘り、石を運び、石垣を築いたとされる。
現在の明日香村に残る酒船石遺跡なども、斉明朝の大規模な石造施設との関係が指摘されている。
飛鳥を歩くと、「古代の都」という言葉から想像する以上に、大量の石を使った人工的な景観が残されている。
斉明天皇は水路、石垣、宮殿、祭祀施設などを含め、飛鳥という空間そのものを国家の中心として造り替えようとしたのである。
「狂心の渠」と呼ばれた巨大工事
しかし、大規模な公共事業には当然、大量の人手が必要になる。
その負担は民衆にのしかかった。『日本書紀』では、斉明天皇の水路工事が「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と非難されたと伝えている。
文字通りに読めば、「狂った心で造った水路」というほど激しい表現である。
もちろん『日本書紀』の記述をそのまま当時の民衆全体の評価と考えることには注意が必要だが、少なくとも斉明朝の土木事業が非常に大規模で、多くの労働力を必要としたことはうかがえる。
一方で、こうした工事は単なる女帝の道楽でもない。中央集権国家を動かすには、宮都、道路、水利、祭祀空間などのインフラが必要になる。
斉明天皇の大土木工事は、国家の力が大きくなったからこそ可能になった事業でもあった。
中大兄皇子と大海人皇子を結ぶ


斉明天皇にとって、もう1つの大きな課題が皇位継承だった。自分の次には長男・中大兄皇子を天皇にしたい。その先も、自分の血統へ皇位をつないでいきたい。
しかし、ほかにも有力な皇位継承候補は存在した。
そこで斉明天皇は、中大兄皇子と弟・大海人皇子との関係を婚姻によって強化する。
大海人皇子は、中大兄皇子の娘たちを妻として迎えた。その1人が鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)。のちの持統天皇である。
つまり、中大兄皇子の娘を大海人皇子へ嫁がせ、天智系と天武系を婚姻で結ぶ。斉明天皇から見れば、2人はともに自分の息子である。
兄弟を政治的にも血縁的にも強く結びつけることで、皇統内部の分裂を防ごうとしたと考えることができる。
しかし、この皇位継承構想の外側に、無視できない皇子がいた。
658年:有間皇子の変
有間皇子(ありまのみこ)は、孝徳天皇の息子である。当時19歳ほど。
中大兄皇子の次の世代という意味では、将来的に皇位継承候補となり得る存在だった。
父・孝徳天皇は、中大兄皇子らが難波から飛鳥へ去ったあと、孤立する形で崩御している。有間皇子が斉明天皇や中大兄皇子に対して複雑な感情を抱いていたとしても不思議ではない。
658年、斉明天皇が紀伊へ行幸している間、蘇我赤兄(そがのあかえ)が有間皇子へ接近した。赤兄は政治への不満を口にして有間皇子の本心を探り、反乱計画を持ちかけたとされる。
有間皇子がこれに応じると、赤兄はその内容を朝廷側へ通報した。有間皇子は捕らえられ、「謀反を企てた」として処刑される。
これが有間皇子の変である。
赤兄が最初から有間皇子を陥れる目的で近づいたとすれば、事実上の罠だったことになる。一般には中大兄皇子が主導した事件と見られることが多い。
一方で、結果として最も利益を得たのは、皇位継承を中大兄皇子の系統へ安定させたい斉明天皇でもあった。
そのため、斉明天皇がどこまで関与していたのかについても議論が残る。
確かなのは、有間皇子の死によって、中大兄皇子の皇位継承を脅かす有力な候補がまた1人消えたということである。
658年〜660年:阿倍比羅夫を北方へ派遣
国内の皇位継承を固めながら、斉明天皇は対外的にも積極策へ踏み出した。
658年頃から、阿倍比羅夫(あべのひらふ)を北方へ派遣する。目的は、朝廷の影響力を東北方面へ広げることだった。
658年には秋田・能代方面の蝦夷と接触。翌659年には津軽や北海道方面まで勢力を広げたとされる。660年には、史料に「粛慎(みしはせ)」と記された人々とも交戦した。
3年連続の北方遠征である。
皇極天皇の時代には国内の蘇我氏との権力関係が最大の問題だった。斉明天皇の時代になると、視線は飛鳥の外へ向かっている。
北へ。そして、やがて海の向こうへ。中央集権国家を強めると同時に、朝廷が支配・影響を及ぼす範囲そのものを広げようとしていた。
一方、トカラ列島など南方から漂着した人々に対しては穏やかに接し、飛鳥へ迎えて住居を与えたという記録も残る。
軍事だけではなく、異なる地域の人々を朝廷へ取り込むことも、斉明朝の対外政策の一面だった。
百済・高句麗を重視した斉明天皇の外交
斉明天皇の対外政策を理解するうえで欠かせないのが、東アジア情勢である。
当時の朝鮮半島には、百済、高句麗、新羅という3国が存在していた。
その背後には巨大国家・唐がいる。孝徳天皇の時代とは外交姿勢にも違いがあり、斉明朝では百済・高句麗との関係を重視する傾向が強まった。
唐との国交も継続していたが、百済や高句麗へ使者を送り、朝鮮半島情勢へ深く関与していく。そして660年、日本にとって重大な事件が起こる。
百済が滅亡した。
660年:百済が滅亡、日本へ救援を求める
660年7月、唐・新羅連合軍の攻撃によって百済が滅亡した。日本と百済の交流は古く、文化、技術、仏教、人材など、さまざまな形で深い関係があった。
滅亡した百済では、残った勢力が復興運動を開始する。
そして9月、日本へ援軍を求めた。斉明天皇は、その要請に応えることを決断する。これは単に友好国を助けるという話ではない。もし唐・新羅の勢力が朝鮮半島全域を掌握すれば、その先には海を隔てて日本列島がある。
百済復興は、日本自身の安全保障にも関わる問題だった。斉明天皇は朝廷を挙げて軍事遠征の準備を開始する。12月には難波で武器を整え、翌年、自ら西へ向かうことになった。数え年68歳。斉明天皇は宮殿から命令を出すだけではなく、自ら軍勢とともに九州へ向かったのである。
661年:百済救援のため、自ら西征する
661年1月6日、斉明天皇一行は難波を出発した。中大兄皇子、大海人皇子をはじめ、皇族や官人たちも同行する。
ほとんど朝廷そのものが、西へ移動するような大遠征だった。
1月8日には航海の途中で大伯皇女が誕生。1月14日には伊予の石湯行宮へ入り、その後、瀬戸内海を西へ進んだ。
3月25日頃には博多湾へ到着。5月には筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)へ入った。百済へ援軍を送り、復興を支援するための前線拠点である。
飛鳥で国を治めてきた天皇が、朝廷を引き連れて九州まで進出する。斉明天皇の治世は、最後に国内政治の枠を完全に飛び越え、東アジアの国際戦争へつながっていく。
「熟田津の歌」が詠まれた西征

斉明天皇一行が九州へ向かう途中に立ち寄ったのが、伊予の熟田津(にきたつ)だった。現在の愛媛県松山市、道後温泉周辺と考えられている。
この旅と結びついて有名なのが、『万葉集』に残る歌である。
熟田津に
船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ
今は漕ぎ出でな
月を待ち、潮が満ちた。いまこそ船を出そう。百済救援へ向かう兵士たちを鼓舞し、航海の無事を祈るような歌である。
額田女王(ぬかたのおおきみ)の作と伝えられている。
斉明天皇は道後温泉だけでなく、658年には紀伊の牟婁温湯、現在の和歌山県白浜温泉にも行幸している。
夫・舒明天皇にも有馬温泉や道後温泉への行幸記録があり、夫婦とも温泉と縁が深かった。
661年7月24日:筑紫で崩御
百済救援の準備を進める斉明天皇だったが、目的を果たすことはできなかった。
661年7月24日。筑紫の朝倉橘広庭宮で崩御した。
数え年68歳。
飛鳥を出て、九州までやって来たものの、海を渡って百済へ向かうことはなかった。斉明天皇の死後、軍事遠征を引き継いだのが中大兄皇子である。
しかし中大兄皇子は、すぐには天皇として即位しなかった。皇太子の立場のまま朝廷を率い、百済救援を進めることになる。斉明天皇が決断した西征は、その後、663年の白村江の戦いへとつながっていく。
斉明天皇の功績
斉明天皇というと、大化改新を進めた中大兄皇子の母という立場で語られることが多い。しかし、その7年間を追っていくと、かなり強い意志を持った天皇像が浮かび上がる。
まず、日本史上初めて重祚した。孝徳政権の分裂後、飛鳥へ政治の中心を戻し、政権を立て直した。次に、飛鳥を本格的な宮都へ変える大土木事業を進めた。
その事業は「狂心の渠」と批判されるほど巨大だったが、国家が人と物資を大規模に動員する能力を持ち始めていたことの裏返しでもある。
皇位継承では、中大兄皇子と大海人皇子を婚姻によって結び、有間皇子の死を経て、自らの皇統を固めていった。
そして晩年には阿倍比羅夫を北方へ送り、朝廷の影響圏を拡大。
最後には百済救援という国際戦争を決断し、自ら九州まで進軍した。
斉明天皇の視線は、飛鳥から日本列島へ、日本列島から東アジアへと広がっていったのである。
皇極天皇から斉明天皇へ、同じ女性が見た2つの時代
皇極天皇と斉明天皇は同じ人物だが、その治世の印象は大きく異なる。
皇極天皇の時代は、国内の権力闘争だった。山背大兄王が滅び、蘇我入鹿が殺され、蘇我本宗家が滅亡する。天皇家と蘇我氏が政治の主導権を争った時代である。
一方、斉明天皇の時代になると国家の射程が広がる。
巨大な宮都を造る。北方へ軍を送る。皇位継承を固める。そして百済を救うため、九州へ大軍を動かす。
皇極天皇の時代に起きた乙巳の変によって、巨大豪族・蘇我本宗家は政治の中心から消えた。
その後、斉明天皇の時代には、天皇を頂点として巨大な国家事業や軍事行動を実行する朝廷が姿を現し始める。
1度目の即位は、蘇我氏の時代を終わらせる転換点に立った。
2度目は、その後に生まれた新しい国家を、飛鳥の外へ押し広げていった。
斉明天皇は、日本史上初めて重祚した女帝であると同時に、飛鳥という都を造り、日本列島の北へ、そして海の向こうの百済へと、国家の領域と視線を拡大した天皇だった。
そして、その最期まで宮中に留まらなかった。68歳の女帝は、朝廷を率いて西へ向かい、その遠征の途上で生涯を終えたのである。
最古の貨幣・富本銭
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あすかルビーの生キャラメル
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