
JR奈良駅から三条通へ出て、東へ歩く。観光客の声が流れ、土産物屋が並び、道の向こうには奈良公園や古刹の気配がある。奈良の中心にありながら、その店の前だけ、少し時間の流れが違って見える。
「今西本店」

白い瓦屋根の下に、深く年を重ねた木の看板が掲げられている。大きく書かれた金色の文字は、派手ではない。けれど、年月に磨かれたような力がある。看板の左には「元祖製造元 今西本店」とある。古い木目の上に置かれた文字が、単なる店名ではなく、ひとつの来歴のように見える。
店の建物は、築400年。軒の低さ、黒く沈んだ梁、入口の奥に見える暗がりを眺めていると、その長さが少しずつ現実のものになってくる。そこには、使われながら残ってきた家の強さがある。

かつて三条通を歩くと、奈良漬の匂いが漂ってきた、と井筒監督が語っていた。現在では失われた香りだが、店に入った瞬間、ぷーんと匂いが来る。酒粕の匂いである。甘いようで、辛いようで、発酵したものだけが持つ重さがある。鼻先をかすめるのではない。こちらの嗅覚を、ゆっくり支配してくる。入口を越えた途端、外の三条通が一枚うしろへ退き、身体が別の時間に置かれる。奈良漬の店に来た、というより、奈良漬が眠っている場所に入った、という感覚に近い。

今西本店は、江戸時代末期に創業した奈良漬の店である。日本で唯一、純正奈良漬の伝統製法を守る店。
純正奈良漬。
その言葉には、少し硬い響きがある。だが、店内の空気に触れていると、その硬さは頑固さではなく、姿勢なのだと思えてくる。

一切の甘味料、保存料、着色料を使わない。使うのは清酒粕だけ。瓜、胡瓜、西瓜などの材料を、何度も何度も漬け替える。短いものでも3年以上。長いものでは20年以上の歳月をかけて熟成させる。
だから、今西本店の奈良漬は、一般的な奈良漬とは色が違う。明るい飴色ではない。もっと深い。皿に並べると、黒に近い艶を放つ。

光を受けると、表面だけが濡れたように輝き、その奥に濃い茶色が沈んでいる。食べものというより、長い時間を閉じ込めたもののように見える。

今西本店の奈良漬は、一般的な奈良漬とは漬ける時間がまるで違う。一般的な奈良漬は6ヶ月前後、長くても1年ほどで販売される。今西本店では瓜で4年以上、胡瓜で9年、西瓜で8年。その間に5回、6回と、清酒粕だけで漬け替える。

下漬け、中漬け、本漬け、仕上げ、極上仕上げ。さらに場合によっては、極上再仕上げまで行う。そうすることで、塩分と水分が抜けていく。酒粕だけで時間をかけるから、色はしだいに黒くなり、味に奥行きが出る。
単に濃いのではない。甘い、辛い、しょっぱい、香ばしい、そうした味のどれかに簡単に分類できないものが、黒い断面の中に詰まっているように見える。

店内には、奈良漬の袋や箱が静かに並んでいる。淡い黄色の包みには、鹿の絵が描かれている。奈良らしい図柄なのに、観光地の土産物にありがちな軽さはない。中央には「粕漬 奈良漬」の文字。筆の線は太く、やわらかい。白い包みには「きゅうり・すいか」、黄色の包みには「うり」とある。どこか寺社の絵馬のようにも見える。

ショーケースには、木箱に入った奈良漬が置かれている。瓜は黒々とし、表面には深い皺があり、乾いた革のようにも、長く眠っていた古木の肌のようにも見える。横には白い箱。そこにも鹿の絵がある。箱の白さが、奈良漬の黒をいっそう際立たせる。

別の棚には、刻み奈良漬の袋が並ぶ。袋詰めされたものは、手に取りやすい。切るのが大変な場合には、この刻んだ小袋を選べる。今西本店の奈良漬は、格式ばった贈答品である前に、食卓にのる食べものなのだ。

不思議なのは、これだけの手間をかけていながら、決して高級品然としていないことだった。特別なものを作りながら、店の空気は「特別なものを売っている」という張りつめ方をしていない。長く続けてきたものを、今日も同じように売っている。そんな静けさがある。店内では試食もさせてもらえるので、相性を確かめてから購入するか決められるのも嬉しいところ。

店内には、奈良漬だけではなく、冷蔵ケースに、日本酒も並んでいる。今西本店は、江戸時代の創業以来、奈良漬だけを扱ってきたわけではない。かつては、もち米のあられを焼酎に漬けて干す工程を繰り返し、みりんと共に密封熟成させた「あられ酒」を造っていた。奈良発祥の甘い混成酒である。さらに、八重桜を酵母にした酒も販売していた。そこへ奈良漬を加え、「今西の三品」として売り出した。その名残が見える。

酒を造り、粕が生まれ、その粕で野菜を漬ける。食べものの世界が、ひとつの循環の中でできている。奈良漬は、酒の文化の延長にあ。

さらに、三輪そうめんも置かれていた。白い束が整然と並び、値札には「三輪そうめん」とある。奈良漬、日本酒、三輪そうめん。奈良の食べものが、ひとつの店の中で静かに肩を寄せている。
奈良漬は、奈良時代から存在し(当時は「大和の糠漬け」という名)、室町時代に正暦寺で清酒が生まれてから現在の「奈良漬」になった。豊臣秀吉も愛し、京都の茶会で振る舞って絶賛された奈良漬の味を、今西本店は今も伝えている。

今西本店を訪れた日、瓜、スイカ、きゅウリ、茄子の4点が入った木箱を買った。
一人で食べるには、少し多い。いや、少しどころではない。何ヶ月もかかる。
箱には、まず淡い緑色の包装紙がかけられていた。中央には、青みを帯びた鳳凰の絵がある。全体に古い土産物のような、けれど安っぽくない品がある。

包装紙を外すと、白木の木箱が出てきた。今度は、鹿の絵が添えられている。木の肌は明るく、四隅には濃い藍色の紙があしらわれ、箱全体を少し引き締めている。
奈良漬の箱というより、小さな宝箱のようだった。

蓋を開けると、酒粕に包まれた奈良漬が並ぶ。透明の袋越しに、べっ甲色の酒粕が光っている。粕はなめらかで、ところどころ濃く沈み、琥珀のように光る。長い時間を吸い込んだものがあることだけはわかる。食べものを買ったというより、時間を持ち帰ったような気がした。

開封してすぐには食べない。今西本店の奈良漬は、開けた直後はアルコールの香りが強く、味もまだきつい。刻んでから4〜5日ほど冷蔵庫で冷やしておく。

土産は、たいてい家に帰ったその日に開ける。この奈良漬は違う。開けて、刻んで、待つ。買ったあとに、もう一度、小さな熟成の時間が始まる。

酒粕につけたまま冷蔵庫に入れておけば、2年はもつ。袋を開けると、あの匂いが戻ってくる。鼻を突くのではない。けれど、逃げ場がない。甘さと発酵の酸と、アルコールの鋭さが混ざって、台所の空気を一瞬で変えてしまう。
ブラック・ダイヤモンド。長い熟成で育てられた奈良漬を見ていると、そう呼びたくなる。黒いのに、沈んでいない。暗いのに、光を持っている。表面に油膜のような艶があり、輪切りにした胡瓜の断面は、黒い硝子のように見える。

粕汁にするように、本来、酒粕は白い。長い熟成のあいだに、酒粕に含まれるアミノ酸と糖質が結びつき、メラノイジンと呼ばれる褐色の物質が生まれる。発酵と熟成を重ねるほど、その色は濃くなる。さらに新しい酒粕へ何度も漬け替えることで、成分が少しずつ凝縮され、べっ甲色から黒に近い色へと変わっていく。色は、時間の跡なのだ。
だから今西本店の奈良漬の黒は、着色された黒ではない。早く仕上げるための黒でもない。何年も酒粕の中で眠り、取り出され、また新しい粕に沈められ、その繰り返しの果てにたどり着いた黒である。

この時点で、一口つまんでみる。まだ冷蔵庫で寝かせる前。だから味は荒い。アルコールの香りが強く、舌の上でふくらむ旨みも、どこか角が立っている。だが、その荒ぶりの奥に、驚くほど澄んだものがあった。ピュアなのだ。
濃い。たしかに濃い。だが、混ざりものの濃さではない。甘味料の甘さではなく、保存料の後味でもない。酒粕と野菜と時間だけがつくった濃さである。強いのに、濁っていない。重いのに、後ろめたさがない。これは、ふだん食べている奈良漬とは別もの。
一般的な奈良漬は、もっと明るい味がする。酒の香りも甘さもわかりやすく、ご飯の横に置けば、すぐに役割を果たしてくれる。だが、今西本店の奈良漬は、すぐに説明できない。甘いと思った瞬間に、酒の辛さが来る。辛いと思うと、奥から香ばしさが出る。しょっぱいと思う前に、塩分はふっと引いていく。

4日後、冷蔵庫から取り出した。小さな保存容器の中で、刻んだ奈良漬は少し落ち着いていた。切ったばかりのときに立っていたアルコールの角が、ほんの少し丸くなっている。瓜は薄く広がり、キュウリは扇形、スイカと茄子は輪切りのかたちを残す。

これは、奈良の名物というより、奈良の時間そのものに近い。急がず、飾らず、目立とうとせず、ただ同じことを長く続ける。その結果として、誰にも真似できない黒さと味が生まれる。
奈良には、そういうものが多い。一見すると地味で、すぐには感動させてくれない。けれど、少し距離を詰めると、急に深くなる。派手な演出ではなく、時間の堆積で人を唸らせる。奈良漬も、そのひとつなのだ。
木箱の中には、まだ奈良漬が残っている。酒粕に包み直し、冷蔵庫へ戻す。奈良漬の匂いが、また時間の奥からやってくる。
守口大根

今西本店には、守口大根の奈良漬(守口漬)も売っている。

守口大根は、大阪発祥とされる、世界一細長い大根。細く、長く、すらりと伸びるその姿は、普通の大根とはまるで別物である。その守口大根を、奈良漬の本場である奈良の酒粕にじっくり漬け込む。

浪花の大根と、奈良の酒粕が出会ったコラボ漬け。

噛むと、シャク、シャクと小気味いい音がする。この歯ざわりが、実に気持ちいい。瓜の奈良漬がしっとりと沈み込む味わいなら、守口大根はもっと軽快だ。酒粕の甘みをまといながら、芯に大根らしい歯切れのよさを残している。

現在、冷蔵庫で寝かしている。完成が待ち遠しい。
- 住所:630-8228 奈良県奈良市上三条町31番地
- 営業:9時30分から18時
- 定休:水曜、第3日曜日
- 電話: 0742-22-2415
- 駐車:2台(向かい)
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