大和ふるさと手帖〜奈良だより

故郷・大和(なら)のまほろばを紹介します。歴史、風土、寺院、遺跡、古墳。あすかびとを目指して。

喫茶ビーナス〜ラベンダー色の扉を開けると、会話が整う

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国道165号線を西に走ると、あすかの湯が見え、それを過ぎると、ラベンダー色の建物が突然視界に入ってくる。空の青さとは少し違う紫で、その違いがかえってよく似合っている。店名の“ビーナス”という響きが、色の理由をどこかで説明しているようでもあった。

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入口の横に飾られたショーケースには、昔から時間がそこだけ止まったような、プラスティックのケーキやカップが並んでいる。やさしい手つきで毎朝拭かれているのだろう、と想像する。扉を押すと、金属の鈍い音がして、店内の空気がひとつ揺れた。

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11時。少し早い昼であり、遅い朝でもあった。インタビューのためにこの店を選んだのは、橿原で活動している「はじめる会」の代表の話を聞くためだ。本当は藤原京で撮影したかったが、雲が覆ってしまっため、喫茶ビーナスで晴れを待とうと思った。

カウンターの奥では、ミッキーの人形が静かにこちらを見ていた。年代物のUCCの缶や、小さな陶器の城。店主が長い年月のあいだ、気に入って置き続けてきたものばかりだ。

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天井の照明は少し派手で、しかし控えめな明るさだった。その光が店内のテーブルを淡く照らし、コーヒーカップの白い縁を金色に光らせていた。

喫茶店というのは、話す人間をやわらかく整える。座る椅子の角度や、コーヒーの湯気の高さが、会話の輪郭を自然に形づくるのだ。

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注文したのは、ダブル・トーストサラダのセットだった。600円という値段が、時間まで一緒に出してくれる。皿の上で、こんがり焼けたトーストが軽い三角形をつくっている。ハムエッグは、きれいに焼かれた白身の中央に、やわらかい黄身をそっと抱えていた。サラダはキャベツの細い刻みにドレッシングが馴染んでいて、その上にメロンが添えてあるのがビーナスらしかった。

ひと口かじると、トーストは驚くほど旨かった。外側の香ばしい層を抜けると、内側にやわらかな甘さがある。パンを焼くという行為を、何度も繰り返してきた人だけが出せる味だ。ハムエッグも、サラダも、無駄がなかった。料理というよりは、朝の空気をそのまま皿に置いたような、そんな静かな安心があった。

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「はじめる会」の代表には、スペシャルチーズトーストが運ばれた。厚めのパンにとろりと溶けたチーズ。ナイフを入れると、ゆっくりと糸を引く。常連らしい客が「ここのが一番いい」と言っていたが、その理由は見ればわかった。トーストの立体感、チーズの量、そして皿に落ちる照明の反射。その全部が、ひとつの習慣のように整っていた。

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窓の外には、白い格子越しに道路が見えた。特別な景色ではないが、特別である必要はない。喫茶店とはそういう場所で、ビーナスはその役割を長い年月のあいだ、変わらない方法で続けてきた。

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インタビューの声がゆっくり流れていく。コーヒーの湯気がその声をやわらかくし、店内の空気を穏やかにまとめていた。この店で話すと、話す内容まで少しだけいい方向へ向かう。そんな風に思わせるだけの時間が、ここにはあった。

皿の上にナイフとフォークを置いたとき、それらはちょうど食事を終えるためにあるべき重さをしていた。店内の光は変わらず、外の空だけが少し明るくなっていた。喫茶ビーナスは、今日もいつものようにそこにあり、そしてそれが何よりいいことだった。