
奈良県橿原市にある天香久山(あまのかぐやま)は、大和三山(畝傍山・耳成山・天香久山)の一つ。
標高は152m。数値だけを見れば拍子抜けするほど低い。登山口からなら、ゆっくり歩いても10分ほどで頂に着いてしまう。だが、この山を「低い」と言ってしまうのは、どうにも気が引ける。高さは物差しで測れるが、重さや深さは測れない。天香久山は、その典型だ。

大和三山のなかで、ただひとつ「天」の字を冠する山。『日本書紀』や『古事記』においても、天香久山は特別な扱いを受けている。神話のなかで、ここは物語を動かす舞台だった。アマテラスの岩戸隠れ伝説も、この山と切り離すことはできない。

山頂には国常立神社(くにとこたてじんじゃ)が鎮座している。大和三山で、山頂に神社を持つのは天香久山だけだ。これは三輪山と同じ構造であり、天香久山が「登る山」ではなく「祀る山」であったことを、今に伝えている。
「大和」と呼ばれた地域が、三輪山と天香久山を結ぶ範囲にあったころ、この山の土は特別な意味を持っていた。神武天皇や崇神天皇の時代、天香久山の土は支配の象徴だったという。土を押さえることは、国を押さえることだった。山は、ただそこにあるだけで、政治そのものでもあった。

天香久山の頂から見る畝傍山は、どこか誇らしげで、しかし控えめだ。頂上は木立に囲まれているが、畝傍山の方角だけは、きれいに視界が開けている。この2つの山は、互いを意識し合ってきたのではないか。そんな気配がある。
舒明天皇のように、国見をしてみるといい。現代の町並みであっても、土地の輪郭は変わらない。時間だけが、何層にも重なっている。

かつて、この山は「倭香山」とも書かれた。倭(やまと)が香る山。これ以上の名前があるだろうか。三山のうち、なぜこの山だけが「天の」を許されたのか。それは、三山のなかでも、ここがとりわけ神聖な場所と考えられていたからだ。
天香久山は、天皇が国土の豊穣を祈り、国の様子を眺める「国見」の舞台でもあり、舒明天皇が詠う和歌が有名である。
大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そ蜻蛉島大和の国は
大和には多くの山があるが、特に天香具山の頂に登り立って国見をすると、国土には炊煙がさかんに立ち、海上にはカモメがしきりに飛び立っている。美しい国よ。蜻蛉(あきづ)島大和の国は。この歌の「海上」とは海ではなく、おそらく、磐余池など大きな池であると思われる。
江戸時代の国学者・本居宣長は旅日記『菅笠日記』に「この山いと小さく低き山なれど、いにしえより名はいみじう高く聞こえて、天の下に知らぬ者なく」と書いている。低い山だが、名は高い。この逆説こそ、天香久山を言い当てている。
天香久山の登山

天香久山には、東西南北すべての方角から登ることができる。JR香久山駅から歩くなら、東側の「万葉の森」から。車なら、西側の「香久山観光トイレ駐車場」に停めるのがいい。

田んぼの畦道を進み、西側の登山口に立つと、少し拍子抜けするほど、山は近い。そこから10分。もう山頂だ。

ここで振り返ってほしい。そこには、畝傍山がいる。

このまま登山道を登っていくと10分ほどで山頂だが、おすすめは迂回して真北にある「天香久山神社」から登ること。ここは天照大神が天岩戸に隠れたとき、ここで吉凶を占ったと『古事記』に記されている。

そして、必ず足を運んでほしい場所がある。山頂から南へ、10分ほど。天岩戸神社だ。

ここには天照大御神が祀られ、天岩戸伝説の巨石が残る。北の「天香久山神社」から山頂の「国常立神社」を通り、南の「天岩戸神社」まで一直線で結ぶ。このルートを辿ってこそ、天香久山の登拝は完成する。

2024年から、天香久山のふもとに広がる香久山公園の芝生広場で、「かぐやまつり」が行われるようになった。芝生の上に、ある日、白いテントが立ち並び、音楽が流れ、人の輪が生まれた。

ステージではフラダンスが踊られ、よさこいの掛け声が響く。色鮮やかな衣装が風をはらみ、リズムに合わせて体が大きく動く。
それらは大和の古代とも、神話とも、直接のつながりはない。天香久山や『万葉集』を思い浮かべてやって来た人には、少し意外に映るかもしれない。
けれど、子どもたちは踊りの意味など気にせず走り回り、大人たちは手にした飲み物を傾けながら、ゆったりとした午後を過ごしている。芝生の上では、世代も関心も違う人たちが、同じ時間を共有している。

フラダンサーの動きは伸びやかで、背景の緑とよく調和している。よさこいの隊列が一斉に舞うと、観客の手拍子が自然と重なり、会場全体がひとつのリズムを持ち始める。露店の前には人だかりができ、カップに注がれたラテの層を眺めながら、誰かが「いい天気やな」とつぶやく。そんな何気ない光景が、いくつも積み重なっていく。

この祭りがきっかけになって、「香久山ってどんな山だろう」「天香久山って、どこにあるんだろう」と思う人が一人でも増えるなら、大きな喜びだ。フラダンスやよさこいが入口でもいい。まず足を運び、芝生に立ち、山を見上げる。その先で、神話や歴史に出会う人がいてもいい。

天香久山の名が、静かな本の中だけでなく、笑い声や音楽とともに響き渡る。「かぐやまつり」は、そんな新しい風を、この土地にもたらし始めている。
天香久山に鎮座する神社
天香久山を詠んだ歌
大和の山
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