
我(われ)もけさ
清僧(せいそう)の部(ぶ)也(なり)
梅の花
現代訳
今朝の私は、まるで心の澄んだ僧侶の仲間入りをしたかのようだ。梅の花の清らかな香りと姿を前にしていると、そんな気持ちになる。
歌の意味

この句は、江戸後期の俳人・小林一茶が大和・長谷寺を訪れた折に詠んだもの。一茶は寛政10年(1798)正月、長谷寺に年籠り(としごもり)し、西国行脚の旅の途中で新年を迎えた。
折しも境内には梅が咲きはじめ、その清らかな香りを前に、一茶は自分の心までも洗われるように感じた。その清新な心境を端的に表したのが本句である。
「清僧の部也」は、“清らかな僧侶たちの仲間に自分も加わったようだ”という比喩表現。長谷寺の荘厳な雰囲気の中で、梅の白さがもたらす精神的浄化を軽やかに示している。
梅は俳諧において、清浄、春の兆し、心を澄ませる花として伝統的に重んじられており、一茶の句はその象徴性を素直に受け取ったものである。
出典
小林一茶俳句。寛政10年(1798)正月、大和・長谷寺の訪問時の作として伝わる。
詠んだ人
小林一茶(こばやし いっさ、1763–1828)
江戸後期の俳人。信濃国柏原(長野県信濃町)生まれ。松尾芭蕉・与謝蕪村とともに「俳諧の三大家」とされることもある。
生涯に何度も旅に出ており、長谷寺訪問もその行脚の一つ。長谷寺は当時から修行の場として知られ、参籠者を多く受け入れていた。一茶はその清浄な場で大和路の風景に触れ、心静かに新年を迎え、この句を詠んだ。
句の素晴らしさ

「我もけさ 清僧の部也 梅の花」
この句の魅力は、長谷寺という“聖地の空気”と、梅の清浄性が響き合う点にある。
① 長谷寺の宗教的空気が句の核心
本尊十一面観音を祀る長谷寺は古代より修験と信仰の中心。その場所で迎えた元旦の静けさは、一茶の心を深く澄ませた。
② 梅の花が“浄化”の象徴になる
白梅の香は“一年のはじめに自分が生まれ変わるような感覚”をもたらし、「清僧の部」という比喩につながる。
③ 一茶特有の素朴さとユーモア
庶民的な一茶が「清僧の部」などと少し気取ってみせるところに、軽妙さと愛らしさが漂う。旅人としての孤独、宗教的静寂、梅の香の清らかさが三層に重なり、一句ながら深い余韻を残す作品となっている。
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