
等彌神社の境内は、秋になるとゆっくりと体温を上げていく。木々の葉は黄から紅へと移ろい、風が吹くたびに、紙片のようにひらりと舞い落ちる。その下を歩いていると、自分の呼吸まで、いつもより深く、静かになるのがわかる。

桜井の山の懐に抱かれたこの社が、いちばん鮮やかに色づく季節。普段は地元の人々に寄り添うように控えめな神社が、この時期だけは少しばかり表情を変える。

その美しい午後、能楽体験の催しが、ひっそりと、しかし確かな熱を帯びて始まった。桜井が芸能の地であるという話は、地元ではよく知られている。だが、初めて耳にする人にとっては驚くかもしれない。

この谷には、日本最古の舞台装置とも言われる「土舞台」が残っている。聖徳太子が、百済から伝わった伎楽(ぎがく)を少年たちに教えるために設けた場所だ。『日本書紀』によれば、推古天皇20年(612年)、百済の味摩之(みまし)が太子に伎楽を伝えたいと申し出た。太子はこれを受け、少年たちに学ばせるためにここに“日本最初期の国立劇場”のような場をつくったという。

この地で、異国の芸能が日本の空気と混ざり合い、やがて猿楽へ、そして能楽へとつながっていった。さらにこの桜井は、能楽の源流「大和猿楽四座」の一つ、宝生流・外山座が活動していた土地でもある。

外山座が拠点とした宗像神社には、今も「能楽宝生流発祥の地」の石碑が建つ。

能楽は京都や金沢の文化だと誤解されがちだが、その根を掘れば、ここ桜井へ行きつく。

2025年11月22日(土)午後1時。献灯祭2日目。子どもたちと大人たちが椅子に腰を下ろした瞬間、拝殿の空気がひんやりと引き締まった。

最初に披露されたのは、短い見本の楽器演奏だった。声が発せられると、空気がほんのわずか震える。

鼓の一打は鋭いのに、乾ききらず、どこか湿り気を含んでいた。刺さるというよりは、身体の奥へ沈んでいくような響き方で、余韻だけがしばらく漂い続けた。

この土地の空気と混ざって生まれた音だ、と感じた。

見本が終わると、子どもたちは社務所へ移動し、丁寧に衣装を着付けてもらう。袖に腕を通すたび、布の重さが身体にまとわりつき、普段とは違う背筋の伸び方になる。

そして、能面。能面が「ほとんど見えない」ものだとは知らなかった。演者がそれを顔につけると、世界は狭い穴から覗くような視界に変わる。

そのため、一歩踏み出すだけで動作が静かになり、慎重になる。その姿を見て、初めて「能面の無表情とは、役者が表情を消すためではなく、世界の見え方を変えるためのものだったのか」と感じた。能面をつけた子どもたちの歩みはゆっくりで、そのぎこちなささえも、この拝殿の空気には不思議と馴染んでいた。

続いて、笛・小鼓・大鼓の体験が始まった。指導している能楽師たちの表情が印象的だった。

小鼓や大鼓は桜の木をくりぬいた胴に馬皮を張ったもの。子どもが手に持つと、自然と気持ちも引き締まるようだ。
大鼓は分厚い鹿皮が使われていて、打つと低い音が部屋の底に溶けていく。笛を吹くと森の光に吸い込まれるような音がし、太鼓は床を通して足に響いた。

初めて触れる楽器なのに、指導する人々の真剣な眼差しのせいか、子どもたちも自然と姿勢を正す。その光景が何より心に残った。真剣に、嬉しそうに子どもたちへ声をかける。音がうまく出ても出なくても、目尻をゆるめる。

午後3時半からは、再び見本の能が披露された。この日の演目は 「猩々(しょうじょう)」

猩々とは、中国の伝説に登場する、酒を好む赤い毛の霊獣だという。日本では、親孝行な男に尽きない酒壺を与える福の神として知られ、祝福の舞としても演じられてきた。その物語の簡潔さが、かえって底知れない古さを感じさせる。

赤い髪を揺らしながら姿を見せた猩々に、子どもたちの視線は吸い寄せられた。

扇を広げる動きはゆっくりだが、鮮やかな衣装と紅葉の背景があいまって、いつまでも残像が残るようだった。

舞も、演奏も最小限の動きのみ。それで何かを震わせ、何かを醸し、何かを残す。まだ能楽の素晴らしさを語れる段階ではない。けれども、この日の体験を通して、胸の底に何かが静かに沈んだのは確かだ。

今年から甥や姪も能楽を習い始めた。来年1月18日、奈良でお披露目があるという。その舞台を観たとき、今日触れた音や面や動きが、また違った形で立ち上がってくる気がする。

桜井に生まれ、桜井で育った芸能。千年以上前の息づかいが、今もこの谷に流れ続けている。その深さを、これから少しずつ探っていきたい。

日本一のパワースポット・等彌神社
能楽発祥の地での子ども伝統フェスタ






















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