
奈良県桜井市はヤマト王権が成立した地域である。最初、王宮は現在の金屋の「磯城(しき)」と呼ばれた地域にあり、次に邪馬台国があったと考えられる「纏向(まきむく)」に移り、その後、「磐余(いわれ)」と呼ばれる地域に移った。
聖徳太子が生まれる100年以上も前、第17代・履中(りちゅう)天皇の時代に築かれたのが磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)」である。
履中天皇が造らせた磐余池(いわれいけ)の辺りにあったと考えられる。磐余稚桜宮の名前は、「履中天皇の稚桜による説話」に関連している。

ある日、天皇が池に船を浮かべていた。杯を持ち上げたとき、そこに季節外れの桜の花びらがひらりと落ちた。天皇は眉をひそめ、物部 長真胆(もののべ の ながまい)を呼んで花の所在を探させた。後世(現在の奈良県御所市)の山あたりに一本だけ咲き残った桜が見つかった。
天皇はたいへん喜び、宮を「磐余稚櫻宮(いわれわかざくらのみや)」と名づけた。そして、花を献じた人物の氏姓から稚桜部造(わかざくらべのみやつこ)・稚桜部臣(わかざくらべのおみ)が誕生した。これは、のちに阿倍氏や若桜部氏へと続いていく氏族の始源伝承と重なる。
そして、この宮の名前が、桜井市の地名の由来となっている。
磐余稚桜宮の候補地

宮があった場所として大和国十市郡と伝えられ、現在では2つの候補地がある。
桜井市谷・若櫻神社付近説

若櫻神社のある谷地区は、古くから稚桜宮伝承を抱えている。境内近くに「桜の井戸」が復元され、この井戸が、天皇が桜を植えた“掖上(わきがみ)の泉”だったとも語られている。一方で、若櫻神社の西方約200mにある石寸山口神社や、稚櫻神社の周辺説もある。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|