
小墾田宮(おはりだのみや)は、推古天皇が治めた、日本の政治改革が始まった地である。小墾田宮は、小治田宮とも書き、飛鳥時代に推古天皇が営んだ宮殿。『日本書紀』によると、603年(推古11年)、豊浦宮(明日香村)からこの宮に遷り、聖徳太子や蘇我馬子とともに「冠位十二階」や「十七条憲法」の制定、遣隋使の派遣など、国家の礎を築く数々の政治改革を行った。
当時の宮は、南に南門を構え、諸官が勤める「庁(まつりごとの場)」を配し、さらに北に女帝の居る「大殿」を置く構造で、のちの都城(朝堂院と大極殿)の原型とされる。608年には、隋の使者・裴世清を迎え、国書の交換と盛大な饗宴が催された。まさに日本の対外交流と律令国家の幕開けを告げた舞台である。
桜井市・三十八柱神社説

小墾田宮(おはりだのみや)の所在地をめぐっては、近年では明日香村の雷丘(いかづちのおか)の南麓が有力視されている。しかし、奈良県桜井市の三輪山麓に位置する「三十八柱(みそやはしら)神社」も、古くから小墾田宮の候補地として知られてきた。地元では「ここが推古天皇の宮跡である」との伝承が今も語り継がれている。

三十八柱神社は、桜井市に鎮座する古社である。この地が「小墾田(おはりだ)」と呼ばれていた地名とも重なり、地理的にも推古朝の宮が営まれた場所としてふさわしいと考えられている。

神社の社伝によれば、推古天皇が政を執った旧跡であり、そののちに天皇の御霊を含む三十八柱の神々を祀ったのが社名の由来とされる。境内には「小墾田宮阯(あと)」と刻まれた石碑が立ち、社殿の周辺では古瓦や土器片が見つかっており、古代の建物群の存在を示唆する。
桜井説の背景には、地名の連続性と、蘇我氏・巨勢氏の拠点がこの一帯に広がっていたという歴史的事実がある。安閑天皇の后妃に与えられた「小墾田屯倉(みやけ)」もこの地域に設けられたとされ、のちに蘇我稲目の邸宅「小墾田家」へと発展したという。蘇我氏の影響下で推古天皇が即位したとすれば、本拠地に近い桜井の地に宮が築かれた可能性は十分にある。

発掘調査の進んだ明日香村説に比べ、桜井の三十八柱神社は伝承の域を出ない。しかし、地形・地名・氏族分布の三要素が一致しており、古代大和政権の重層的な構造を考えるうえで、無視できない存在である。もしこの地が本当に推古女帝の宮であったなら、桜井こそが日本最初の本格的な王都・飛鳥文化の出発点だったことになるだろう。
桜井・三十八柱神社の小墾田宮
明日香村・雷丘南麓説
現在もっとも有力とされるのは、奈良県明日香村の雷丘(いかづちのおか)南麓一帯を中心とする説である。1980年代以降の発掘調査で、6〜7世紀初頭の石敷遺構や苑池(庭園跡)が確認され、推古朝の宮殿跡とみられている。この遺跡は「雷丘東方(いかづちのおかとうほう)遺跡」と呼ばれ、「小墾田宮推定地」として整備が進む。
さらに、奈良時代の史料に見える「小治田宮(おはりだのみや)」も、この雷丘周辺にあったことが墨書土器(小治田宮と記された器)の発見により裏づけられており、飛鳥地域における宮殿の系譜が明らかになりつつある。
明日香村の小墾田宮
奈良の遺跡
ヤマト王権発祥の地
邪馬台国があった場所
2代目・ヤマト王権
3代目・ヤマト王権
武烈天皇の都
雄略天皇の都
仏教伝来の都
蘇我氏と物部氏の対立
日本初の都城