大和ふるさと手帖〜奈良だより

故郷・大和(なら)のまほろばを紹介します。歴史、風土、寺院、遺跡、古墳。あすかびとを目指して。

磯城嶋金刺宮〜初瀬と粟原、二水のほとりの王都

磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)は、奈良県桜井市の初瀬川(はつせがわ)と粟原川(おおばらがわ)にはさまれた一帯に営まれたと伝わる宮である。

いまは「磯城嶋公園」として整備され、芝のひらきの中に石碑や歌碑、解説板が点在する。

初瀬川に囲まれた低地を歩けば、古い都の気配が水脈に沿ってゆっくりと残っているのがわかる。

磯城嶋金刺宮〜初瀬と粟原、二水のほとりの王都

この宮を営んだとされるのは第29代・欽明天皇(509–571)。継体天皇の皇子で、『日本書紀』は西暦552年、百済の聖明王から金銅の釈迦像や経論が献じられ、ここから日本の仏教公伝が始まった。政治と信仰がはじめて公的に交わる、その転換点としてこの地は記憶されている。

磯城嶋金刺宮

地名の「磯城嶋(しきしま)」は、古く「シキ」「シキシマ」とも呼ばれた。ここでいう「嶋(しま)」は水中の島ではなく宮廷領の一区域を指す語で、やがて「しきしま」が大和、ひいては日本そのものを指す言葉へと広がっていく。万葉の歌人はその広がりを言霊の国に重ねた。

「磯城島の大和国は言霊の助くる国ぞ真幸くありこそ」
柿本人麻呂が詠んだ歌は、大和の言葉が現実を支えると信じた古代の息づかいを今に伝える。

大伴家持はこうも詠む。「敷島の大和国の明けらけき名に負う伴の緒心努めよ」

大伴氏の名に恥じぬよう、心を正して仕えよと一族に諭す歌である。どちらの歌にも、「敷島(しきしま)」が大和の代名詞として響いている。

磯城瑞籬宮、日本最古の宮都、崇神天皇が築いた大和王権の原点〜遥かなるヤマトの記憶

この地域はさらに遡って、崇神天皇の都・磯城瑞垣宮(現在の金屋)が「紀元前からのある時期に68年にわたり」置かれたと伝わる。

崇神の御代には神皇分離が行われ、天照大神が檜原神社に祀られた。上古の都が重なり、祭祀と政が組み替えられた舞台。そうした歴史の厚みが、後の磯城嶋の名声を支えた。

公園内の解説板は、室町の『太子伝玉林抄』、元文元年(1763)の『大和志』、大正3年の『大和志料』(大神神社宮司・斎藤美澄)などを挙げ、この一帯に金刺宮があったとする伝承の経緯を伝える。

磯城嶋金刺宮〜初瀬と粟原、二水のほとりの王都

「太子伝玉林抄」には、内裏跡が現在地から東北へ約100メートル、字・垣ノ内にあったとの口碑が記録されている。

古代の市場・海柘榴市(つばいち)もこの周辺に開け、諸国の物資と人が行き交った。桜井出身の・保田與重郎は、「都の名が国の称えとなった例はほかにない。

磯城嶋金刺宮〜初瀬と粟原、二水のほとりの王都

磯城嶋金刺宮こそ、大倭朝廷の力あふれて成った大いなる都である」と記し、この地を特別な起点として位置づけた。

いま、磯城嶋公園に立てば、初瀬川と粟原川のあいだに広がる平らがよく見える。水に守られた中州のような地形、東南にのびる古道の気配、近くに開けた海柘榴市のにぎわい。それらが重なって、ここがかつて「国際都市」としても栄えた理由を静かに語る・

石碑は寡黙だが、川風が頁を繰るように歴史を運んでくる。遺構は多くを語らない。しかし、名と地勢と歌が互いを照らすことで、磯城嶋金刺宮は今日も地表に浮かび上がる。敷島—大和—日本。その言葉の連なりの原風景が、二つの川の間、この小さな公園に静かに息づいている。

 

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